【魔女の宅急便】キキはなぜ飛べなくなったのか?【宮﨑監督はこう語った】

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金曜ロードショーで『魔女の宅急便』を放送していましたね。

もう何回、観たことか。何回観ても新しい発見がある本作ですが、なぜ映画の途中でキキは空を飛べなくなってしまうのか。これ気になりませんか。

「キキがトンボに恋をしたから」「大人になったから」「他の女の子に嫉妬したから」など、とまあ、理由をいろいろと考えることはできるわけですが・・・。

実はキキが飛べなくなった理由は、映画のなかのとあるセリフで語られているのです。

映画の途中で絵描きの少女が登場しますよね。(映画のなかで名前を呼ばれるシーンはないのですが、彼女の名前はウルスラと言います)


映画の後半、空を飛べなくなったキキがウルスラの小屋を訪れます。あのシーンの会話を思い出してください。

ウルスラ「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなるよ」

キキ「ホント!? そういう時 どうするの。私、前は何も考えなくても飛べたの。でも どうやって飛べたのか今は分からなくなっちゃった」

ウルスラ「そういう時はジタバタするしかないよ。描いて描いて描きまくる」

キキ「でも やっぱり飛べなかったら?」

ウルスラ「 描くのをやめる。散歩したり、景色を見たり、昼寝したり、何もしない。そのうちに急に描きたくなるんだよ」

ここで、重要なのは「魔法も絵も似ているんだね」というセリフです。

ウルスラ「魔法って 呪文を唱えるんじゃないんだ」

キキ「うん、血で飛ぶんだって」

ウルスラ「魔女の血か、いいね。私そういうの好きよ。魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神さまか誰かがくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ」

これです。これ。そのものずばり。もうウルスラが、はっきりと答えを言ってますよね。絵を描くのも、魔法を描くのも、親からもらった才能なのだと。

つまり、キキが飛べなくなった理由は、「空を飛ぶという行為」が「個人の才能」によるものだからです。

難しく考える必要はまったくありません。空を飛ぶのも、絵を書くのも、パンを焼くのもみんな同じ、無意識のうちに発揮される才能なのです。

平たく言えば、思春期を迎えた女の子が、人とのかかわり合いの中で、自意識過剰になって、嫉妬して、不安になって、劣等感を感じて、ふてくされてもやもやして、スランプになった。そんなところです。

  • トンボに恋をしたから?
  • 他の女の子と自分を比べて劣等感を感じたから?
  • 仕事が上手く行かないから? 

ある意味、全て正解なんです。

ここでは、宮崎監督の発言を交えながら、考えていきたいと思います。

魔法という生まれ持った才能

キキが語ったように、魔女は「血」で空を飛びます。「血」をわかりやすく言い換えるなら、生まれ持った才能です。

つまり、キキは生まれ持った才能で空を飛んでいるわけです。キキは空をとぶために努力をしていません。

わたしたちにも覚えがありませんか? 大して努力をしなくても、無意識のうちに、サラサラっとこなせてしまうこと、ありますよね? 

英語が得意、数学が得意、絵を描くのが得意、人と話すのが得意、スポーツをするのが得意、手芸が得意、別になんでもいいんです。

意識しなくても人より上手にできること、きっと持っていますよね。まさにそれが「才能」=「血」なのです。

自由だった子ども時代

キキはこれまで自分だけの世界で、悠々自適に空を飛び回っていました。街にやって来る前のキキは、人と距離を取って、ひとりで空を飛んでいたのです。

自分だけの世界で、何でも言うことを聞いてくれる従順なネコを連れて、いわばお山の大将です。そりゃあ自由ですよね。一人で気ままに空を飛んでいれば良かった。

でも、街で仕事をするとなると、そうも言っていられないわけです。どんどん自分から人のなかへ飛び込んでいく必要が出てきます。なにしろ修行ですからね。


街へ降りて、ホウキなんか手放して、ジジなんか家に置いて、どんどんいろんな大人と交流して、同年代の友達を作って、オシャレをして…。本当ならそんな具合に、積極的に他の人と関わって、たくさんの経験をしないといけないのです。

親元を離れて一人立ちをした以上、いつまでも自由な子どもではいられないわけです。

認められるということは比較されるということ

仕事をこなしていくうちにお客さんも増えてきた、トンボという親しい異性の友人もできた。みんなに自分の働きが認められるようになっていきます。

「空を飛ぶ」という自分の能力・才能が、認められるというのは、キキにとっては初めての経験です。嬉しかったでしょう。

今までは、何でも言うことを聞くクロネコと気ままに空を飛んでいたキキですが、ここで初めて大人の世界に足を踏み入れたわけです。

能力を認められるということは、同時に他人から評価され、序列を付けられるということです。それが大人になるということですからね。どうしても他人を意識せざるを得なくなります。

その結果、トンボや女の子たちに嫉妬してしまったり、劣等感を感じたり、落ち込んでしまうわけです。

作中では「飛行船」に夢中になってしまうトンボたちに明らかに嫉妬しています。

「空を飛ぶ」という価値尺度で、「飛行船」と自分自身を比べてしまっているわけです。飛行船と比べたときに、わたしの存在意義ってなに・・・?

さらに「ニシンのパイ」の一件です。きっと喜んでもらえるだろうと思っていたのに、「私このパイ嫌いなのよね」と冷たくあしらわれてしまうわけです。ここで田舎から出てきたキキの甘い考えが一気に打ち砕かれるわけです。仕事をするっていうのは、こういうことなんだ、という現実を知ることになります。


そんなもやもやが積み重なった結果、ついにスランプに陥ります。自分を探し始める思春期の幕開けです。

ウルスラが語る宮崎駿の本音

絵描きの少女ウルスラは、映画の中でこう語っています。

「あたしさ、キキくらいのときに絵描きになろうって決めたの。絵描くの楽しくてさ。寝るのが惜しいくらいだったんだよ。それがね、ある日全然描けなくなっちゃった。描いても描いても気に入らないの。それまでの絵が誰かのマネだってわかったんだよ。どこかで見たことあるってね。自分の絵を描かなきゃって」

ウルスラが語るように、昨日まで出来ていたことが、急に出来なくなることはよくあることなのです。それは魔法も同じ。

鉄棒の逆上がりとか、縄跳びの二重飛びみたいなものです。


このウルスラのセリフは原作には出てきません。しかも歴代のジブリ作品と比べてもかなり珍しい、くどくて説明的なセリフです。でも、宮崎監督は、どうしてもこのセリフを入れたかった。

このウルスラのエピソードはアニメーター宮崎駿の本音なのです。

宮崎監督は、東映動画時代に「君の描く絵は、ある人の絵に似ている」と言われた経験があります。だからウルスラのこのエピソードは異常に説得力があるし、リアリティがあるんです。

飛べなくなった理由

才能っていうのは、みんなそうなんです。無意識のうちに平気で使っていられる時期から、意識的にその力を自分のものにする過程が必要なんですよ。

自分の力を自分で見きわめていく仕事を二十代・三十代・四十代とずっと続けていって、ようやくこんなものかなとある程度の見きわめがつくっていう程度のことでしょ。だから、今まで平気で、無意識のうちにやれたことがとてもできなくなってしまうというのは、無意識のうちに成長していくことは不可能だということでもあるんです。

インタビューでの発言(『ロマンアルバム』『ジブリの教科書5』などに収録)

前置きが長くなりましたが、キキが飛べなくなった理由について、宮崎監督は次のように語っています。

この映画の中の魔法を、いわゆる魔法ものの伝統から切り離して、彼女の持っているある種の才能というふうに、ぼくは限定して考えました。そうすれば、いくらでも飛べなくなるっていうことはあるんだ……と。

そうなると、どうして飛べなくなったかっていう理屈が欲しいかどうかという問題になってくる。

でも、そうやって理屈をつけたからって問題が明瞭になるかといったら、決してならないでしょう。むしろ、僕はいまのような表情のほうが、見ている女の子たちも納得がいくんじゃないかって思ったんです。

きのうまでは飛べたのに、なんで急に落っこちてしまったのか、なぜこんなに人の言葉がつきささるんだろう、なぜこんなに元気がなくなってしまったんだろう……そういうことじゃないですか。

インタビューでの発言(『ロマンアルバム』『ジブリの教科書5』などに収録)

魔女の宅急便は恋物語でもお仕事アニメでもない

結局『魔女の宅急便』という作品においては、トンボとの恋愛なんかは大した問題ではないわけです。なんなら、宅急便という仕事だって、大したテーマではありません。

この物語は「才能」の扱い方を忘れてしまったり、取り戻したりする物語なのです。

誰しも、子供時代には、やっていて楽しいことだったり、夢中になれるもの、好きだったものがあったはずです。でもある時、挫折だったり、他者との比較によって、自分の才能を客観的に見つめ直さなければいけない、悩める時期がやってくるわけです。
ただし、宮﨑駿はそうやって悩むこと自体を否定しているわけではありません。

キキがラストシーンで再び飛べるようになったのは、トンボを救いたいという、ただそれだけの無我夢中な気持ちになったからです。

「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」

夢中になること、それは大人になると難しいことかもしれないけれど、本当に自分の好きなものを、本当に得意なものを、見失わないために欠かせないことなのです。

ちなみにジジと話せなくなるのも同じ理由

ここからは完全に余談です。

途中から、黒猫のジジとの会話ができなくなってしまいますが、これも、キキが大人の一歩を踏み出したという証なのです。鈴木プロデューサーはこう語っています。

思春期について考える中で、ジジの役割もすごくはっきりしていきました。あれはただのペットじゃなくて、もう一人の自分なんですね。だからジジとの会話っていうのは、自分との対話なんです。

ラストでジジとしゃべれなくなるというのは、分身がもういらなくなった、コリコの町でちゃんとやっていけるようになりました、という意味を持っているわけです。

『ジブリの教科書5』より引用

つまり、ジジという自分に都合の良い友人をずっと引き連れていたわけです。トンボというボーイフレンドに会うときでさえ、絶対に一対一にならないようにしているんです。

でも、思春期に入って少しだけ成長したキキは、もうジジと話す必要はなくなりました。

ホウキでも身を守っている

キキのホウキの扱い方も非常に面白いです。今度、映画を観るときは、キキがホウキをどうやって扱っているか、よーく観察してみてください。

母親から無理やり押し付けられたように見えるホウキですが、映画の中ではいつも自分の身を守るようにホウキを立てているんです。自分ではそのことにまったく気づいていません。