これまで選ばれなかった結末 映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』感想<ネタバレ注意>

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並んでこちらを見ているなずなと典道

映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』

 原作のテレビドラマは数年前に一度観ましたが、本作の前情報はほとんどないままに映画館に行きました。

 端的に感想を述べると、「とてもよかった」の一言です。具体的な感想は以下に述べますが、まずこの作品について興味深いのはネット上にあふれる酷評の数々でした。


打ち上げ花火を見上げる典道と友人達主人公、典道とその友人たち(中学一年生)…DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO - YouTube


 そもそも昨年のほぼ同時期にはあの超ヒット作『君の名は。』が公開されていることもあり、ネット上をはじめ、『君の名は。』との比較が多く見受けられました。

(そもそも両作とも配給元・プロデューサーなどは同じであり、宣伝段階から寄せていってるフシもありますが)

 ただ、その比較は批判のために用いられていることがほとんどでした。ここで大手映画レビューサイトの一つ、「Filmarks」の点数を見てみましょう。

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君の名は。の作品情報・感想・評価 | Filmarks

本作の評価

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?の作品情報・感想・評価 | Filmarks


 Filmarksにかぎらず、こうしたレビューサイトでは5点満点中4点以上が「名作」のラインとなっていることが多いようですが、『君の名は。』は4.0点なのに対し、『打ち上げ花火〜』は2.7点。かなり低評価。

 評価が低い理由には「よくわからない」「消化不良」「演出がくどい」「『君の名は。』に比べてエンタメ性が低い」などが多いようです。

でも私にとっては『君の名は。』との比較を飛び越えて、純粋に素晴らしい作品でした。

何が素晴らしかったか。

なずなヒロインの及川なずな(中学一年生)… DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO - YouTube


 では、何が素晴らしかったか。映像美やキャラクターの魅力など、賛美すべきところは多々ありますが、今回はその結末について語りたいと思います。本作の一番の魅力は結末に他なりません。(以降、本作の結末に触れます)

 本作では、中学一年生の主人公とヒロインの「駆け落ち」への挑戦が繰り返し描かれます。当然、本作以外にも駆け落ちや家出、短い冒険記など「少年少女の現実からの逃避行」をテーマとしたフィクションはこれまでにも数多く存在しています。
『海辺のカフカ』『スタンド・バイ・ミー』『ライ麦畑で捕まえて』etc.(それこそ、原作の岩井俊二監督は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』に大きく影響を受けたと公言しています)

 それらの作品の結末では決まって「現実への帰還」が描かれます。その理由にはやはり「現実からの逃避なんて現実的(持続可能)ではない」という思想が背景にあるからだと思います。

 本作で言えば、中学一年生に過ぎないなずなと典道がたったふたりで東京や大阪に行ったってどうにもならない、といったところでしょう。結果、その思想は「一時的な逃避を通して、少年少女は現実世界で成長する」というある意味で無難なものとして作品を形作ります。

 もちろん、だからこそ、それらの作品は単なる「虚構」の世界にとどまることなく「現実」の私たちの生き方・考え方に役立つものを与えてくれるのでしょう。ただ、それは「虚構」と「現実」の持つ可能性を過小評価していることにもなるのではないでしょうか。

 本作では、家庭に問題を抱えたヒロインのなずなが主人公の典道とともに繰り返し「駆け落ち」を試みます。しかしあるとき、なずなが典道に「どうせ駆け落ちなんて無理だよね」というようなことを言います。

 この発言は上述した「現実帰還エンド」作品の価値観を踏襲した一言になっています。もし本作がこの価値観を最後まで引き継ぎ、「逃避行」は「一瞬の物語」に過ぎないのだと諦めていたら、きっと結末で描かれるのは「結局は日常に戻り、少しだけ成長したなずなと典道」だったのでしょう。

けれども、本作はそのようなエンディングには至りませんでした。


可能性をつかむ典道

「ふたりで東京に行った」という可能性を掴む典道… DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO - YouTube


 本作はそれ自体が「もしも」つまり、ある種の「虚構」をテーマにした作品です。ゆえにタイムリープ(というより平行世界)としての構造もその物語に含んでいます。

 物語の終盤、とあるできごとから、なずなと典道の元に「ありえたかもしれない無数の可能性」が降り注ぎます。そのなかには甘く美しい「理想」「妄想」とも呼べるような可能性も含まれています。つまり、従来の作品なら決して主人公たちは選び取ることのなかったような「可能性」です。
 
 しかし典道はそれを掴み取ります。
 
 降り注ぐ結晶のなかに映し出された「可能性」=「東京駅にたどり着いたふたり」はとても美しく、尊いものでした。物語中の最大のダイナミズムは間違いなく、その「可能性」がスクリーンに映し出され、それを典道が掴み取った瞬間でした。

 そして迎えるラストシーン。ネット上の感想では「よくわからなかった」という意見が多いですが、(映画館でも上映後に「最後よくわかんなかった」という声が聞こえてきました)この流れから続く結末としてすごく自然で素直なエンディングでした。
 
 わたしの解釈としては、やはりあのラストシーンは「なずなと典道はふたりで東京に向かった」という結末を描いたものです。

 このラストは、これまで多くの作品が選択してきたような「大人な」あるいは「現実的な」選択とは一線を画す結末でした。普通の作品であれば、「なずなは転校してしまい、典道にとってのひと夏の思い出となる。そしてみんな少しだけ大人になる」というようなラストだったでしょう。

 選びたいけど選べない、でも、典道が選び取った「なずなとふたりで東京に行く」という選択肢はこのうえない美しいものでした。

 その結末への批判として「いくら美しくてもしょせんは虚構」「現実にはどうせ無理」というようなものがいくらか見受けられます。

 はたして本当にそうでしょうか?

 すぐれたフィクション作品が持つ重要な役割の一つに「現実の常識を打破する」というものがあると思います。

 典道たちが選んだ最後の選択はたしかに現実の常識に照らし合わせれば荒唐無稽のものかもしれませんが、「まったくありえない」ものでもありません。

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↑一般的な「虚構と現実」のイメージ

「虚構」と「現実」は一般的に上図のように相反した関係だと考えられがちですが、


虚構が現実に内包されている


↑実際の「虚構と現実」のイメージ

「虚構」はあくまで現実内で想像されることであるため、正しい関係性はこのようになります。

 すなわち「しょせんは虚構だから、現実には関係ない」という言葉は間違っていて、「虚構」で描きうることは「現実」でも達成可能なのです。

「なずなちゃんは転校しちゃったけど、典道も大人になった」というような結末は一見リアリティがあるように見え、「だからぼくらもがんばろう」と簡単に現実に結び付けることができますが、それは諦めに他なりません。

 諦めることが大人になることなのだとしたら、たしかにそういった結末は大人の鑑賞に耐えうる立派な作品に不可欠なのかもしれません。

 しかし、「虚構」を「現実」に引き寄せ、「現実」に実現が難しそうなことを描く「虚構」を「しょせんは虚構だから」と切って捨てるのは言い訳にすぎないのです。

 この作品の結末を「幼稚だ」と切って捨てることは簡単ですが、なずなと典道はこの物語の最後で、「大人」になってしまった人にとっては何よりも選び難い、でも選びたかったはずの選択肢を掴み取ったのです。 

結論

旅立つなずなと典道DAOKO × 米津玄師『打上花火』MUSIC VIDEO - YouTube


 以上の意味で私は本作『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の、原作とも異なったその結末を素晴らしいと思います。

 今年の夏はもうすぐ終わりますし、一年もすぐに終わってしまいます。
 それでも、だからこそ、ぼくらが、ぼくら自身が本当に選びたかった選択肢を放棄してしまっていないか、それを確かめるためにもこの作品を観ることには大きな意味があるのではないでしょうか。