「ぽらりすくんって今20代だよね?」
「そうですけど・・・」
「いいねえ、若くて。まだ、なんでもできるじゃないの」
そんな会話はしょっちゅうである。おじさんたちはいつもぼくを見つけては「若いねえ」と嬉しそうに伝えてくる。
確かにぼくは20代。でも、特にやることはない。ぼくの人生にはうるおいが無い。だからこうやって日曜日にブログを書いている。
「人生のうるおい」それは魅惑的な響きである。それはキラキラと輝く人類共通の夢だ。
エジプトを流れるナイル川は毎年のように氾濫して、乾いた砂漠に水を届けていた。古代エジプトの人々は、そうやって農業をしていたという。
ぼくの人生は砂漠のように完全に乾いている。干からびてカラカラだ。どうすれば人生のうるおいを見つけられるのだろうか。かれこれ10年くらい自問自答をしている。
人生にもナイル川がほしいぞ。
ぼくが考えつく限り、人間を満足させうるのは以下のとおりではないかと思う。足りない頭を捻って考えだした。これらのうちどれかを満たすことができれば、乾き続ける人生も豊かになると思う。
- 金
- 名誉
- 地位
- 人望
- 創作
- 無償の奉仕
お金を得ることで満足できるのか
あらゆる物質主義の根幹をなすのがお金。良い企業に入って、それなりに良いお給料ももらっている。確かにお金はたくさんもらっているけれど、それで人生満足かというとそういうわけでもない。
マルクス経済学によると、人間は金銭的に現状に満足することはないという。なぜかというとわたしたちが労働者である以上、お給料は「必要経費分」しか支給されないからだ。
だから、労働者は一生身の丈にあったお給料しか手に入らない。それはお医者さんでも弁護士でも、一流企業の社員でも、みんな同じ。
ぼくは志望度の高い企業に入ったけれど、別に全然満足していない。就職活動をしていた当時、ぼくは2ちゃんねるのホワイト企業ランキングに踊らされていた。それで結局上位のほうにランクインしている組織に入った。
内定をもらえた時は嬉しかったけど、まあ、今はそんなでもない。
結局そういうことだと思う。ぼくの友人は、みんな良いところに就職していった。NHK、メガバンク、東京海上日動、都庁、新聞社、電通、ADKとか。もうそんなとこばっかり。
そんな彼らのなかにも、すでに転職した人がいる。大手企業に入って、地位や名誉、ステータス、そして高収入を得たのに。労働環境が悪かったのか、あるいは仕事の内容があわなかったのか。
いずれにせよお金はたくさんもらっていたはずだ。でも、きっと何かに満足できなかったのだろう。お金がいっぱいもらえていても、幸せには直結しない。
お金はあるに越したことはない。でもやっぱりそれで満たされることはない。ぼく自身もボーナスをいっぱいもらっても、心がときめくことがなくなった。なんでだろうな。
そりゃあ、もっとたくさんお金ほしいけど。それだけじゃないんだよな。
地位と名誉と人望
このなかで一番大切なのは人望だと思う。地位も名誉もすぐに自分の中で陳腐化してしまいそうだ。即物的な地位や名誉ではなく、人望。
結局人間はひとりでは生きていけないので、人望というのは極めて重要なポイントだと最近思う。承認欲求とか、人とつながる欲求とか、そういう社会的な欲求を満たすことが大事なのだと思う。
人望がある人は割りと人生楽しそうに見える。あの人の周りにはいつもだれかが集まっている、そういう人は確かに存在する。人望のある人は、きっと高次元の欲求を満たせているに違いない。だから、幸せそうに見える。
大量の人脈を持っている人、毎日社交の場に出かけている人、ご近所付き合いの豊かな人、そういう人が最終的に幸せになるのかもしれない。
創作活動は救いになるか
近いうちになにか創作活動をしようと思っている。モノを消費するだけではなくて、何かを創る人間のほうが楽しそうだから。吉野源三郎もそんなことを言っていた気がする。
神様だってまず最初に天地を作ったのだ。それくらいモノを作るという行為は、人類共通の何かに通ずるところがある。と思う。
ぼくの大学時代の恩師は、伝統工芸品の職人から大学教授になったという異色の経歴の持ち主だった。気弱な先生だったが「美術品に触れたり、何を作ったりするということはいいことだよ」と、力強くしばしば語っていたことが印象に残っている。
でも、職人や芸術家がみんな一様に幸せかっていうと多分そんなことはなくて、みんなものを作る過程で悩み苦しんでいる。だから創作活動=人生の満足度UPというわけにはいかないだろうな。
しかし、「何かを生み出す」という行為とその過程は、人生に大きなうるおいを与えてくれるのは間違いない。でも具体的に何を創作するかは決めていない。
ここまで書いてきて思ったのだが、ブログも立派な創作活動と言えるのでは?
だとすれば、ぼくは現在進行形でブログという創作活動に救われているのだろうか。うーん、あやしいところだな。
無償の奉仕
現代人こそボランティアに励むべきなのかもしれない。20世紀の心理学者アドラー先生も、なにやら他人に奉仕することが大事みたいなことを言っていた気がする。
学生時代にボランティアをやっていたことがあるが、確かにボランティアは気持ちがいい。ボランティアは善意の押し売り、そういう見方もある。でも誰かの役に立つということはすがすがしいものだ。拝金主義が進む世の中にあって、ボランティアという無償の活動に人生の意義を見出す、のもアリなのかもしれない。
ただ、大きな問題としてボランティアは体力や時間を使う。日夜消耗している現代人が、恒常的にボランティアに励むのは少々きびしい。
被災地の復興支援から、子どもの絵本の読み聞かせ、道端のゴミ拾いまで。いろんなボランティアが世の中には存在する。意外と選択肢は多い。
わたしたち若い世代はなぜかボランティアが好きだ。ボランティアセンターという専用の部署が用意されている大学もある。ずっと不景気という暗い言葉を聞いて育ってきた我々は、心の何処かで「誰かの、何かの、役に立ちたい」と本能的に考えているのかもしれない。
終わらない旅路
ナイル川を探す旅をやめてはいけない。きっとどこかにナイル川はある。まるでイヌのように、あてのない旅を続けた先に見えてくるものもあろう。
人は常に不満を抱えて生きていく生き物だ。だから限りある人生、時間の使い方はよく考える必要がある。年を取った時に後悔しないように。今できる最善の選択肢を選び取って生きていくしかないのだと思う。
そんなことを考えながら、わたしは今日もスマホのどうぶつの森に興じるのだ。